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今週末の9/22『佐藤正隆&小関佳宏ギターデュオコンサート』
及び9/23『佐藤弘和作品を楽しむコンサート』へ向けて、
ここに言葉を残しておきます。
僕が弘和先生に初めて会ったのは21歳の時でした。 現代ギター社GG学院のレッスン室でのこと。チェックのシャツを着て、スニーカーを履いていて、とても 普段着な印象。僕はかっちりとした作曲家たる身なりで現れるものだと想像していた。けれどもそんな想像 とは全然違っていた。とても話しやすく、穏やかだった。僕はその日の晩に先生にメールをした。先生の曲 がどんなに好きで、馬鹿みたいに毎日弾いていること、実際にお会いできてどれだけ嬉しかったか等、その 時の僕の持てる言葉を総動員してそれを伝えた。すると返信をくれて「作曲家冥利に尽きるよ」と書いてあっ たのを今でも覚えている。本当に偉ぶることのない、穏やかで優しい人だった。
レッスンの時間は本当に面白かった。テクニックのこと、曲の背景、作曲家のこと、和声的なこと、曲が 作られた時代のこと。先生はあらゆる視点から教えてくれた。先生が作曲家だからこその捉え方も感じられ た。そして僕は先生が見ている世界が好きだった。 レッスンの場所がGG学院から先生のご自宅になってからはますます面白かった。レッスンが3時間を超 えることはいつものことで、その他本来のレッスン以外のこともしてくれた。その頃まだ幼かった娘さんを 先生と一緒に保育園に自転車でお迎えに行ったり、娘さんが僕の似顔絵を書いてくれたこともあった。玉川 上水という水辺の緑地を散歩して、作曲した時のイメージを伝えたりしてくれたこともあった。レッスンの 後に飲み屋さんに行ったこともあった。あの時、先生が何気なく話していたことを何故いまこんなに自分は 覚えていないのだろうと思う。その面影があるだけで。
僕が現代ギター社で連載を担当するようになって1年が経った頃、編集部の人に聞いたことがある。「何 故、仙台にいる僕が連載させてもらえているんですか?」と、すると、「言うなって言われてたけど、「弘 和先生に「小関をよろしく」と言われたんですよ」と。先生は本当にそういう人だ。言葉よりも実践。その 時のレベルに合わせて現場を与えてくれていた。そうやって後になってから気付くこと、知ることばかり。 盛岡へ一緒にコンサートへ出かけた時のこと。コンサートの翌日に岩手大学のギター部を訪ねたことがあっ た。先生は部室で学生がリクエストした曲を全て暗譜でサラリと弾いてみせた。昼食を学食で食べることに なり、注文したメニューを待っている時、先生はおもむろに五線譜と鉛筆を出して音符を書き始めた。その 時思いついたメロディーを書き留めていたのだ。しゃしゃっと、数分で。 先生は作曲の時は、頭の中で完成したらそれを五線譜に落とすのだそうだ。パズルゲームと推理小説が好 きで、それは作曲のトレーニングになるのだとか。
僕が東京へ行き、先生に会う度に誰かに会わせくれた。その方々とのご縁が生まれ、今では一緒に様々な 活動をさせてもらうようになった。一緒に自転車に乗ってくれたことも、散歩したのも、小さく見えるよう な一つ一つのことが音楽に結びついている。
結局、先生がどうやって作曲していたのか、それは今もわからないままだ。「作曲の仕方」の分かりやす い方法なんてものはたぶん存在しないのだ。実践あるのみ。僕が日々、作曲をしていて残っているのは先生 のその作曲に対する姿勢。先生は人から見えないところでずっと戦っておられたのだと思う。僕はその「姿 勢」のほんの一部を垣間見ることができただけでも十分だ。言葉で教えれるものではないし、やはり「実践 あるのみ」なのだから。
僕は先生がいなくなってから空を見上げることが多くなった。今になって話したいこと。見てもらいたい もの、聴いてもらいたいものがいっぱいある。でも、音楽をやっていて良かった。音は空へ届くような気が するから。この空の下、僕はこれからを生きていく。ギターを弾いて、作曲をして、次の時代をみんなと一 緒に創っていきたい。
小関佳宏
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